日本楽友会

日本楽友会ホームページ Editorial

若山邦紘  1941年(昭和16年)1月生まれ

慶應義塾大学工学部卒、高校時代から塾の混声合唱団楽友会で宗教曲の大曲をオーケストラバックで歌ってきた。余技にトリオやカルテットでジャズコーラスやバーバーショップを楽しんでいた。

大学院博士課程終了後は法政大学工学部経営工学科に奉職、42年間、70歳まで研究・教育生活を送った。専門はOperations Research(作戦研究)とシステム工学、情報処理応用。2011年定年退職、名誉教授。

日本楽友会の懇親会には2009年の会から参加するようになった。会長の原田イサムさんを始め親しい役員諸氏に誘われてのことである。ドラムスの池貝さんには「この人は趣味で大学の教授をやっています」と紹介される。本当の話かもしれない。池貝政俊さんから「渡したいものがあるから麹町のスタジオNOTAに1時半までに来い」と言われ、行ったところが理事会の会場だったのです。その時の顔ぶれ、原田イサムさん、瀬川昌久さん、池貝政俊さん、唐木洋介さん、竜野みち子さん、増田ひろみさん、奥山五月男さん、高谷邦彦さん、細川正道さん、鈴木雅司さんだったか・・・。それで、理事にされてしまったのです。

さて、終戦直後、米軍の将校が日本家庭に住みたいと我が家にホームステイに来た。それまで、4歳になるかならない頃、近所の家に「軍歌の出前」をやっていた。予科練の歌だ。「邦ちゃんは歌が上手ね」と褒められるので調子に乗って毎日出前をした。それが、世の中180度ひっくり返り、キャプテンがキャンプから持ってくるジャズのレコードに4歳児は目覚めた。その時は何も解らないはずのビング・クロスビーやベニー・グッドマンなんてレコードがかけられたのだ。気持ちがよかったらしい。それ以来、敵性音楽だったジャズにはまって70数年になる。5歳の頃は、片言の英語を喋っていた。

小学2年生のころ、神田の畜音堂というレコード屋でダイナ・ショアの”バッテンボー”のレコードを買ってきて、耳から聴いたままヘンテコな英語で歌っていた。12歳の時にクロスビーの”White Christmas”を買ってきて覚えた。街ではジングルベルしか鳴っていない頃のことだ。変な子供だった。

エルビス・プレスリーの”Heart Break Hotel”を後楽園のスケート場で、はじめて聞いてたまげたものだ。

40代の頃、南青山のLamp LightでDolly Bakerに出会い、こんな歌手が日本にいるのかとDollyの弟子となった。ジャズボーカルの何であるかを学んだ。後に沢田靖司と無二の友となる。この時代はソロ・ボーカルが中心だったが、元サーカスの島田トオルと皆さんよくご存知の佐藤 宏さんと3人で余興にコーラスもやった。今はないテレ朝通りの夜更けのSound Inn DOMINANTが遊び場だった。

50代になって慶應Light Music Society出身のお兄さんに連れられて赤坂のLittle MANUELAに行くようになった。そこで、出会ったブルーコーツの小島正雄さんの長男、小島 恂に誘われてジャズ・コーラスを25年ぶりに再開した。OZ SONSの始まりだった。1999年にスリー・グレイセスのコンサートに引っ張り出されたのがきっかけとなり、2000年代はいろいろな人やいろいろなところから呼ばれた。2003年、最後の「ゲソの気まぐれコンサート」にゲストで出た。5月連休直前にコンサートがあったのだが、ゲソGはその年の9月に他界した。

次の年の2月にはわれわれを可愛がってくれた世良Gがガンで亡くなった。追悼コンサートでわれわれOZ SONSは、唯一の素人グループにもかかわらず、世良GにささげてMr. Wonderfulを歌った。世良ママは「あなた達が一番心がこもっていたわ」と言われた。

2013年6月に、最初で最後の自主コンサートを草月ホールで開催した。中尾ミエに生前葬だと言われた。

何ということか、楽友会とは私にとって10代の頃からの自分の肩書となる名称であり、慶應義塾楽友会のOB/OG組織である楽友三田会のホームページ「楽友」を作成・編集を2008年に始めた。

日本楽友会もホームページを作らねばならない。これが、本ホームページを立ち上げた因縁話だ。2つの楽友会のメンバーは珍しい存在だ。世界中で私一人。

(2014/11/25)

⇒ Webmasterメール

 
 Webmasterの編集サイト紹介

⇒ Jazzにまつわる話   ⇒ OZ SONS-PIT   ⇒ 楽 友